GRACE  仲間の手記


息子の一周忌に思う事/コウスケ


 喪失体験の後、グリーフケアーに繋がりました。そして、自死する前に息子の鬱の兆候を何故同じ回復施設の仲間が見抜けなかったのかと、施設に対する怒りと恨みが湧き起こってきました。施設の治療共同体としての在り方に疑問を抱き、同じ気持ちを持った仲間のグループに足を運び、思いを共有してきました。


 キューブラー・ロスなどの、死に関する本も読み漁りました。私自身も抑うつ状態になり、依存症に関係する講演会場で仲間に声を掛けられ「どこでお会いしましたっけ」といったこともあります。悲嘆のプロセス【否認の段階→怒りの段階→抑うつの段階】を経験し、そうしているうちにこんなことではいけない。本人をそんなに追い詰めた苦しみ、絶望とは何にか。フランクルは絶望の方程式は、「絶望=苦悩-生きる意味」と言っています。息子は正に生きる意味を見失ってしまったのです。そうした息子の気持ちが分かりたく、真剣に依存症の勉強を始めました。それまで12ステップの第4ステップでライフヒストリー的棚卸方法に違和感を感じていたので、ステップ4の棚卸は取り組んでいませんでした。私たちの「恨み」や「恐れ」や「過ち」の背後に、いくつもの性格上の欠点があること、これらの性格上の欠点とは、私たちの考え方と行動の否定的な習慣、人生に対する無意識的な反応、無益な振る舞いに現れます。棚卸表の一列目に恨んだ人の名前を書き出すことが出来ず、今まで傷つけてきた人の名前だけが浮かんできました。何かステップ8をしているようです。そこで、依存症の家族を持ついろいろな自助グループに足を運びました。共依存・感情表現の問題・否定的な考え等について仲間の話を聞かせて貰っているうちに、AC・機能不全家族?、エー私もそうなの?!。気付かされたんです。


 原家族で父は昔の尋常小学校まで、母はチョットヒステリックな高等女学校の出。母は言葉には出しませんでしたが、自分より学歴の低い父をずーと尊敬していなかったんです。もともと義父に気に入られての結婚でしたが、結婚して間もなく離婚したいと悩んだ母は初めて妊娠したとき、このお腹の子は生まれてこなければいいと思っていたそうです。念は通じるんですね。臍の緒が巻きついての死産だったそうです。私は寡黙な父と一寸ヒステリックな母との間で6歳まで一人っ子で育ちました。母は世話好きな人で進んでPTAの役員や町会の役員をやっていました。子供の私は昼間も夜も一人で留守番をしていることが有りました。夕方になると怖いので早めに雨戸を閉めていました。外のチョットした物音に「誰だ~」と声を張り上げたり、私の小さな心は脅えていたのです。大人たちは「良くお家のお手伝いをしているのね」と言いました。思い出すと随分寂しい思いをしていましたが、帰宅した母からの優しいスキンシップは有りませんでした。この頃から見捨てられ不安を抱えていたのです。また、徒競争の苦手な私は運動会の前日はかなり緊張していました。見に来てる母の不機嫌な顔を見るのが嫌だったのです。それでも私の偽りのプライドは負けても平静を装い、心は劣等感に苛まれていました。等身大の自分、あるがままの自分を表現できなくなっていました。それから、母は怒ると私は竹の物差が割れるほど叩けれた記憶があります。それが何でそうされたのかは思い出されません。母の一時的な感情の爆発だったのか、母から何か諭されたという記憶は全く有りません。そんなことが私の恨みの感情として挙げられるでしょうか。しかし私が人生の岐路に立ったとき母は手を貸してくれました。其のお陰で今日の私があるのだと思っています。また、父からは怒られたり叩かれた記憶はありません。父の育った家はもともと土地の代々お大尽でした。しかし、先代の父親がお坊ちゃん育ちで働くことが好きでなかったので山や田畑を売っては生活をしていましたがやがて底をつきました。さらに戦後の農地改革の不在地主でわずかばかり残っていた農地を没収され、私の父は相当悔しい思いをしました。満足に学校にも行けなかった父は学歴のコンプレックスを抱えて、長男として家族を支えるための責任が重く圧し掛かっていたのです。このように、父母も機能不全家族で生育してきたのです。しかし関東大震災と戦争という大変な激動の時代を生き抜いて来た両親に何の責任も有りません。生前父は自分の生育歴を私に何度も繰り返し話していました。時には自分の運命を恨むかのように責めていました。それはある意味父もステップ4の棚卸していたのでしょう。


 私は仕事上の失敗の恐れや、評価されることへの過剰なこだわり、認められたいという感情、そして完璧主義からワーカーホリックになっていました。そうした中での家族団らんの食卓も、楽しいコミュニケーションがない緊張した雰囲気だったでしょう。私の息子が発症したとき「お前の育て方が悪かった」とか、「親父に褒められたことが無い」と私は責められました。確かによく出来たと思ったことも、心から褒めてあげることが出来ませんでした。褒め方が分からなかったのです。褒めるとは単に「よく出来たじゃないか」、「凄いじゃないか」ではないんですね。素直に自分の感情を表現することが私には出来なかったんです。私も親から褒められて嬉しかった記憶がないのです。


 物質依存&行為依存&人間関係依存と嗜癖し、自死した息子に我が家の機能不全の重荷を負わせてしまったことに申し訳なさを感じています。そのことは残された家族で共有し孫たちにはそのような辛さを味あわせたく有りません。自分自身のことが好きで自分を大切に生きていって欲しいと心から願っています。家族に真実を正しく伝え世代間連鎖を断ち切ることが出来るよう、これから自分なりのペースで成長していきます。もうすぐ息子の一周忌です。「貴方が我が家の機能不全の責任を負ってくれたんですね。気付かせてくれてありがとう」。


 いま、君が施設にいたときの笑顔の写真を見ながら・・・

 ーーーコウスケーーー

2009年8月