GRACE  仲間の手記


恨みが感謝に変わる?/Rocky


 いつもなら自転車で仕事場に向かうところだが、今日は雨なのでレインシューズ(長靴ともいう)を履いて出かけることにした。坂道をくだりながら、ぼんやりと歩いていたら、向こうから白い乗用車がスピードをあげて走ってきた。私の横を走りぬけた次の瞬間、私は水溜まりの水をたっぷりと浴びていた。

 ムッとした表情で振り返ると、すぐ後ろを歩いてきた若者が「ほんと、ムカつきますよね」と、優しくなぐさめてくれた。その言葉にちょっぴり救われた気がしたが、まだ私の怒りはおさまらず、50mほど先で信号待ちをしている車のところまで走って行き、「どうしてくれるんだ!こんなビショビショにしやがって!!」と言ってやろうかと思った。しかし信号が変わり、その乗用車は何事もなかったかのように、走り去って行った。


  私の家系を流れるテーマは、アルコール依存症である。父方祖父はアルコホーリックだったし、母方祖母は暴力を伴うアルコホーリックだった。つまり父も母も、純粋のAC(アダルト・チャイルド)であり、私は血統書付きのACなのだ。

 私は小さい頃からセルフエスティームが育たなかった。「ぶきっちょ」だの「要領が悪い」だの、「運動神経が鈍い」だのと否定的な言葉を、親から沢山言われてきたからだ。自分というものに、いつも自信が持てず、不全感と不確実感に苛まれていた。私にとって人生最初の危機感は、「親が承認したことだけをやっていたら、自分がダメになってしまう」ということだった。

 思春期のまっただ中で、私が取ったのは「事後承諾」という戦術だった。そのことで、父子葛藤はさらに激しさを増したが、今考えてもあれ以外の戦術はなかったように思う。しかし、共依存症の特徴である「自己評価が低いパターン」は、その後もしっかりと根を張り、私の生きづらさを形づくっていった。つまり「偽のプライド」でも自分をしっかりガードしないと、自分を保てないと本気で考えていたのである。

 当然のことだが、こうしたことは私の対人関係に歪みをもたらすこととなった。とりわけ大人の男性は、最も苦手な存在だった。何も相手から言われないうちに、「こいつも俺に否定的なアプローチをしてくるだろう」と殆ど妄想的な思い込みで、身構えてしまうのだ。40歳を過ぎた頃、私は仕事の関係でAAと出会い、今までとは正反対の「弱さをさらけ出す」場があることを、初めて知ったのである。


 当時私は女性に依存する生き方をしていたが、AAのミーティングに定期的に参加させてもらいながらも、自分の依存対象が「性」であることを否認し続けた。しかしアルコホーリックの仲間たちの正直な話が、私の否認を溶かしていったのである。だから、AAは私にとって、「命の恩人」である。

あのまま依存対象に囚われた生き方を続けていたら、とっくに私は命をなくしていただろう。今日も電車の中吊り広告には、性依存の問題から「刺した」「刺された」「心中した」といった週刊誌の見出しが載っている。その当事者は確かに私ではないが、私なのだ。依存症には再生か死しかないと言われているが、それは事実だろう。身体的な死ではなくても、精神的な死や社会的な死はいくらでもあるからだ。


 職業に貴賎がないように、依存対象にも貴賎などないのだが、私は「性」という依存対象に囚われた自分を、最低なやつだと思った。もともと低かった私のセルフエスティームは、どん底まで落ちた。しかし、AAのミーティングに出ているうちに、私の病的性衝動は次第に小さくなってゆき、ソブラエティが与えられたのである。あれほど自分の意思や根性でやめようと思ってもやめられなかったのに、先行く仲間たちの真似をしていただけで、私の問題行動は止まっている。今は天秤皿の片方に「性」という依存対象が乗っているのなら、もう片方の天秤皿に何が乗っているのかを考えている。多分そこには、子ども時代から私が抱えてきた「心の空白感」や寂しさや悲しみがあるのだろう。

 確かに私はアルコホーリックではない。しかし、アルコールは、まぎれもない依存性薬物であり、私の生き方を損なうものである。そう思って、私もアルコールをやめ続けて14年になる。


 私は近頃、共依存症のことを「小判鮫」人生とか「宿り木」人生とかと評している。もともと、共依存症は「愛情という名の支配」「ラブ・アディクション」「恋愛嗜癖」「偽りの愛」「嗜癖としての愛」「自己喪失の病」等々、様々な形容をされてきた。しかし、私自身のことなので、お許しいただきたいが、もっと簡単に言えば、「ゆすり・たかり」「思い上がり」「傲慢」「不遜」「自惚れ」病である。共依存症は、けっしてアルコホーリックの妻だけの病ではない。

 

 振り返ってみると、私の病気は職業選択にも、配偶者選択にもしっかりと現れている。苦しんでいる人や困っている人を助けたくて、私は援助職を選んだ。子ども時代に、いじめられた経験を沢山持っていた私は、やがて「権威・権力アレルギー」になっていった。大学時代も、卒業して援助職に就いてからも、このアレルギーは小さくなるどころか、逆にどんどん肥大化していった。

 だから私には、クライエントと対等な関係を築くんだという気負いがあった。しかし、実際には、クライエントのことを「自分の面倒をみることができない人」として見ていたし、「頼まれもしないのに、どんどんアドバイスを与えたり、指図をしたり」していたのが私だった。それは、支配/服従という共依存症の特徴そのものである。いつも自分を優位に置いていたが、実は、私が助けてもらいたかったのだ。配偶者選択もそれと同じだとやっと思えるようになった。


私はそれまで不安の先取りなどしない人間だと思っていた。ところがステップ4をする時は、底なし沼の前に立っている気分だったし、ステップ5をする時は、教会の告解室の扉を開ける気分だった。しかしステップ8は私にとって、もっと恐怖だった。私は「傷つけたすべての人の表」という言葉に囚われてしまった。すべてということは、ひとりふたりではないということである。どのくらいいるのだろうという恐怖心から、私は「ステップ8逃亡者」になった。


 14年目に転機が訪れた。私より何年も後からステップを始めた仲間が、ステップ8をやり遂げてしまったのだ。しかもそれは素晴らしい出来栄えだった。私は今年の8月、何人かの仲間の提案にも支えられて、ステップ8に取り組むために、重い腰をあげた。

 傷つけたすべての人の表を作り終えた時、私は「そんな馬鹿な!」と思った。なぜなら55年間生きてきた私が傷つけた人の数は56人だったからだ。だとしたら、私が自覚している何十倍も、何百倍も無自覚に傷つけてきた人がいるということではないのか。つまり、私は自分が傷つくことには敏感でも、他人を傷つける事には鈍感だということなのだ。事実、傷つけた人たちの表を作りながら、「いやあ、俺の方がはるかに傷ついているぜ」、と思う場面が度々あった。その都度、これはあくまで「私が傷つけた人が焦点なのだ」、と自分に言い聞かせるのが大変だった。


 このステップを踏んでみて分ったことは他にもある。たとえば同じ人を何回も傷つけていたことである。あるいは、傷の種類や深さ、傷つけ方、状況やきっかけに共通点があることだった。そしてステップ9では「その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会があるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。」と書かれている。つまり埋め合わせは、傷つけたことを自覚できている人たちばかりでなく、自覚できていない人たちをも視野にいれろ、ということではないのか。

 むろん、埋め合わせできることはしたいが、できない人も沢山登場した。私にとって究極の埋め合わせは、今日一日ソブラエティを続けることだろう。私の経験したことは、どれも私の成長材料になる。たとえそれが一般的にはネガティブに評価されるようなことであっても、同じ問題で苦しんでいる仲間には力になるのだ。だから私は生きている価値があるし、私は「社会資源」なのだ。


 濡れたズボンをちらちら恨めしそうにながめながら、私は仕事場の前まできた。その時私は、はっとした。あの乗用車の運転手は、私に水溜りの水をはねかしたことに気づいていなかったのかも知れない。それは丁度私が、無自覚に人びとを傷つけてきたことと同じではないのか。だとしたらあの車を運転していたのは…。

 恨みが感謝に変るってことはあるんだ。そう思ったら、なんだか今日がいい一日になりそうな気がしてきた。


 ーーーRockyーーー