GRACE  仲間の手記


仲間を死なさずにすんだ!/Anonymous


 私が共依存症だと言うことに気付いたのは、自分自身のアルコール依存症の治療が軌道に乗り、暫く経った頃である。私は21歳の頃、失恋をきっかけにアルコールに溺れて行き、気がついたらどうにもならない自分になっていた。『お酒さえうまく飲めれば…』と言う思いばかりで、アルコール以外の問題に全く気付こうともしなかった、否、出来なかった。26年間に渡るこの病気との戦いに敗れて、何度目かの精神病院の門をくぐり、リハビリ施設を経て AA(AlcoholicsAnonymous=アルコール依存症の自助グループ)に繋がり、12のステップや12の伝統と言った、AAプログラムを実行することで、お酒を飲まない生き方がようやく始まった。


 それから2年程経って、アメリカのカウンセラーの日本での講演のポスターに『共依存症は全ての依存症の元である!』と書かれているのに驚いた。アルコール依存症の勉強をするなか、共依存症はその家族がしがちな、イネブリング(病気を助長させる行為)だと思っていた。だから依存症本人にはAC(アダルト・チルドレン=機能不全の家庭で育った成人)の性質があるのは理解できたが、共依存症がアディクションの元!とは理解出来なかった。


 その後、飲まない生き方が3年4年とAAのお蔭で続く様になり、自分の生き方の様々な欠点短所、いや欠点と言うより、もうそれは病気だと気付くようになった。アルコールを飲まなくなると、アルコールの抜けた心の空白を何で埋めるのか?というとAAそのもの、又はAAで言うハイヤーパワーである、と言われる。それが十分に埋められないと、他の依存対象に置き換わるだけになり、共依存症や、ギャンブル依存・女性依存・男性依存・買い物依存・仕事依存症…など際限なくシフトして行く。私は初めに仕事依存、共依存、女性依存、買い物依存が現れ、ここからモグラたたきが始まるのだが、女性依存や共依存症のように、たたいてもたたいても顔を出すものが残った。


 アルコール依存症の仲間同士の人間関係の上で、共依存症は苦しいものだった。いつも自分の気になる人がいて、ミーティングに来てなかったりすると、「飲んでしまったのではないか?」と、四六時中その人を心配していたりで、気の休まる時がない。特に女性に対して強く不安を覚えていた。時には自分の休日さえ犠牲にしてその人の為に行動してしまう。こうした状況で仕事自体を続けるのが、やがて困難になり、とうとう辞職をせざるを得なくなった。今だから言えるが、私の心配や行動は、相手を思う心より、自分が安心したいが為の行動にしか過ぎなかったのだ。まさに自己中心的なコントロールだ。相手に対するコントロール=愛による支配だ。


 仕事を辞めたからと言ってそれらの病気が回復に向かう訳ではなく、むしろ職業上かかっていた『タガ』が外れて、一時的にかえって女性依存症がひどくなり、女性の視線が痛く感じられて、AAの中にも居辛さを感じる程だった。さすがにそれは懸命に努力して、自分の意思で女性依存症を抑えていった。何故なら、AAにいられなくなる事は私にとって“死”を意味するからだ。しかし女性依存症については本当の回復ではなく、我慢の抑制でしかなかった。


 そんな中、Aさんと言う仲間に出会い、健全で且つ真剣な愛を育んで行こうとした。しかしAさんは病院を退院してもAAによる回復がままならない。プログラムを伝えることで、何とか回復に向ける手伝いが出来ないかと、一緒にAAミーティングに通ったりもした。他にもありとあらゆる色々な過剰な世話をやきもした。このような過剰なケアが依存・共依存と言う関係になると知りながら、Aさんの事が気掛かりで、どうしても自分の手から離して、神または12ステップのプログラムに委ねられなかった。ひどいときは、さっき別れて来たばかりなのに、急に心配になると、もう自宅は目前に迫るところに着いていながら、再びAさんの家に戻り、無事を確かめて又帰路に着く、と言うようなことを繰り返していた。自分の意思では抑えきれない、正に病気である、と感じた。

 しかし、それだけやってもAさんのお酒は止まらない。ところが、私の鬱がひどくなり、Aさんに会えない期間があった。何とその間は、お酒が止まっていたのだった。但し又私と会うようになると飲んでしまう。そんな事を二度も繰り返して、とうとうドクターストップが掛かり、二人はしばらく離れることになった。


  結局、私は善意から、あるいは愛情からAさんの手助けをしようとして、過剰なケアをし過ぎた。それはむしろAさんの自立心とか、自ら回復に向かおうとする『やる気』を起こすことを阻害し、結果としてAさんの回復の芽を奪っていた。そのまま続けていたら、Aさんを死なせてしまうところだったんだな、と気付いた。

 それからは、Aさんは自分自身の回復の道に努力してゆく。私は私自分自身の共依存症の治療に努力してゆく。そのように決め、且つ実行した。互いに必死だ。なぜならCoDAでの回復にあるように、互いに相手を高め、自らも成長しながら、補い合うべきは助ける、と言った、より健全な相互依存を元に“真に愛し合える二人”になりたいから!! 


 その数ヵ月後、共通の主治医が私に勧めたのが、CoDAであった。私には或る種のリスクも伴うとアドバイスを受けながらも、彼女と真の愛で再び関わりあえる事を望んでいた私は、CoDAに行き始めた。

 最初は女性ばかり7人の中に男性は私1人、少々戸惑ったが、事前に知識として得ていた「境界線」を強く意識することを続けている内に、平気になった。数週間通い続けるうちに、むしろ自分の共依存症と仲間の共依存症に共感を覚えるようになり、次第にAさんについての病的な囚われがだんだんと薄らいで行くのを感じるようになった。

 

  更に驚くことが起きた。自分の女性依存症はなかなか回復に向かわないと、半ば諦めの心境でさえあった。それが、CoDAに行き始めてから3ヶ月程して、ふと気付くと「あれっ、いつの間にか女性から愛されたいという欲求が薄らいでいる!」と感じられたのだ。

 もう一つある。母との関係を、4年前から修復したいと努力はしていた。2歳の時、弟が生まれ、体を壊した母が、私を田舎に預けた際に感じた「見捨てられ感」が大きなしこりとして消えずにあり、「愛されない私」を心の奥に沈めたままでいた為か、どうしてもしっくり行かない。時には殺意さえ覚えるほどに、『憎しみ・恨み』が強かった。にも関わらず、CoDAに通い始めて数ヶ月、決して長くは無い期間なのに、これもいつのまにか消えている自分に気付いた。憎しみや恨みが消えただけでなく、「高齢の母(85歳)には、少しでも親孝行の真似でもしたい」と殊勝な気持ちにもなれた。この現象は、まるでお酒が止まったときと同じような、不思議な、奇跡としか言いようの無いものを感じた。それは母も父も、その生い立ちや生き方から考えると、同じACだったかもしれないと言う、仲間意識が生まれた為かも知れない。


 自分の場合、AAや他の自助グループではなし得なかった、他人や自分自身との健康な関わり、母との和気あいあいとした日常の暮らし、女性依存症の問題が、数ヶ月で好転したことに不思議さを感じもするが、納得する点もある。

 主治医が「AAでは両親の事や、ACの事については、十分に話せる機会や時間に限度があるでしょう?」とCoDAを勧めて下さった訳が分かったように思えた。主治医の言われたように、少なくも私には親から、特に母からの「見捨てられ感」などについて、アルコールを飲んでいた頃の話を主体にするAAでは話す機会が少なかったのかも知れない。それがCoDAで十分に話せ、放せたから、A子との共依存症的囚われや、女性依存の問題、母との決して健康的な家族とは言えなかった関係が改善したのであろうと、と確信している。主治医の勧めでCoDAに通う前に読んだ著書の「全てのアディクションの元は共依存である」と言う説も、8年前に聞いた当初は理解に苦しんだが、その後の経験や、CoDAでの回復を思うと、すこぶる納得のゆく説である、と今は思うようになった。

 又それまでの私のAさんへの愛は、決して健康的なものではなく「愛による支配=コントロール」であり、又「プログラムと言う名を被せた、これ又支配=コントロール」であった事も認めるようになった。


 これからは、少しづつでも、より健康的な真の愛を目指し、その為に自分が必要とする12ステップグループに通い続け、自らの回復を図りながら同時に、まだ苦しんでいる多くの人々に、この話を伝えてゆきたい。

それが少しでもお役に立てれば、私が無償で与えられたものを、無償で返すことになり、私も一層成長が出来て、いま将に全てが好循環を始めようとしているのではないか、と思う。それが果たせるように努力するのが、私の出来る一つの感謝の形であり、責任とさえ感じる。


 最後に、分かち合いをして戴いたCoDAの仲間の皆さん、CoDAを勧めて戴いた主治医の先生に心より、感謝の言葉を捧げたい。『有難う、本当に有難う』と。

 ーーーAnonymousーーー

2008年